2016年ももう半分以上過ぎ、10月半ばになりました。早いもんです。

 

そして、2016年6月で実家の両親と絶縁(連絡しない・会わない・関わらない)してからちょうど4年が経ちます。
弟や弟嫁ちゃんから時々聞く話によれば、予想通り親は相変わらずなようです。何したって変わらない。それが毒親です。

 

親はさておき、この4年間でめまぐるしく『自分自身』が変わりました。
環境がガラッと変わったとかそういう「外側」の変化はあまりないのですが、少しずつ内面、認識が大きく変わり、結果、穏やかな毎日を過ごしております。

 

とても穏やかに暮らしていますが親のことも時々考えます。
罪悪感は本当に薄れてきました。でも時々夢に見たり、ある場面を思い出したりもします。
幸せを求め絶縁しようと考えていらっしゃる方、がっかりするかもしれません。
でも大丈夫です。

 

何が大丈夫なんだよぉ、って数年前の私ならイライラしてるところです(笑)。

 

もちろん私も絶縁当初、
「親のことも何もかも全て忘れて新しい自分になる」「親に対して罪悪感が全然なくなる」って状態を望んでいました。(完璧な自分になりたかった。そして罪悪感が怖かったし、後悔することも怖かった。)

 

でもその望み自体が不可能なことだったんですね。

 

そもそも「親との軋轢」なども含めて「自分自身である」ということを受け入れないと嘘になる。過去にフタをして、逃げれば逃げるほど逆に追いかけられる。じゃあその部分も含めて、自分で受け入れるほかない。

 

少なからずとも親から引き継いだであろう自分の「イヤな部分」、むしろその完璧になれない、真っ白になれない、グレーな私の存在を許してそのまま世界に「ポンッ」と置く、、、

 

この「ポンッ」と置く。のが大事なところで、
誰かに主張したり、論を闘わせたり、言い訳したり、どっちが本当に悪かったか証明したりしなくても、もういい。
そんなことしなくたって、世界は私を受け入れてくれる。
自分の辛かったことや苦しかったこと、見苦しいところ嫌な部分も含めてそこに生えている草花と同じように、ただ世界に存在させてもらう。

 

私もただの生き物で、ただこの時代にたまたま存在したただの人間で。
色んな生き物がいて色んな人間がいて色んな物質があって(有害であっても)。
でも世界は、自然は、太陽やお月様はそれらを「要る」とも「要らない」とも言わない。ただただ、全ての存在を受け入れている。

 

蛇だってサソリだって時に人を殺す。でもだからって絶滅させればいいなんて世界は言わない。世界は本当は、優しい。

 

そんな世界にただポンッと自分を置かせてもらう。そんで、私は何も言わなくていい。理由もなくていい。何も説明しなくてもここに存在してもいい。初めはビクビク置いた。誰か文句言わないかなとか、ここにいてもいいのかな? とか。
取り越し苦労だった。

 

と、ちょっと話がそれてしまいましたが、
要するに「親のことをどうしても考えてしまう自分」であってもいいんです。
そのまま、そのまんまで。ああ、また考えているなあ。そうだね、思い出したねぇ。
その黒い気持ちもここにいていい、って分かった時からその黒い気持ちが負担にならなくなったんですね。
共存するというか。真っ白になれない自分や世界をグレーのまま受け入れるというか。
黒いかもしれない自分自身だってここにいていいんだもの。

 

その黒い感情も自分の一部。
一緒にいたわって生きていくしかない。
感情を嫌って排除しようとしたら、「自分自身」の存在も排除され嫌いになる。辛くなる。
そうではなくて、うんうん、そう思うのも仕方ないよねぇ。ってその黒い感情をいたわってやる方向に変える。

 

『You have right to be here! (あなたはここにいていいのですよ、ここにいる権利があるんですよ、誰もあなたがここにいることを責めたりしないんですよ)』
加藤諦三さんの本にあった一節です。

 

自分以外の人に認めてもらうことも大事、でも同時に自分が自分に強く言い聞かす。
『I have right to be here! (わたしにはここにいる権利がある、わたしはここにいてもいいんだよ)』自分で声に出して言い続ける。

 

絶縁した自分でもいい、ってまず自分自身で認め続ける。最初は恐る恐る、でも人間慣れてくる。
そうすると自然とまわりに「自分を認めてくれる人」が出てくる。もしくは「この人、私の事認めてくれていたんだ」と気づけることができた。

 

親のことで悩む自分がいてもいいんだって思えて、「親のことで悩む自分」だけが自分の全てでないこともわかった。

 

朝起きて着替えて朝食食べて、子どもと遊んで時々けんかして、夫ともたまには遊んで喧嘩して。日々のなかのごく1ページに「親のことを考える」っていう時間があったりするだけ。その時間をクローズアップしすぎないで、時間と気分は刻々と変わっていくことを念頭に置く。潮が満ちて引いていくように、いい時とわるい時もある。気分も時間もただ過ぎ去るのを待てば、また楽しい自分に戻れる。

こう思えるようになった毎日です。

 

今の親子関係を一言で言うと「因果応報」

親子関係が上手く行かなかった原因は、、

 

子どもが悪い、親が悪い……。
不景気が時代が……。
親との相性が……。
親が毒親でその親も毒親だったから……。etc

 

じゃなくて、結局「因果応報」の法則が働いただけだな~としみじみ思ってます。
(因果応報=仏教の考え方で、原因に応じた結果が報いるということ)

 

子どもの頃さんざん親が私にかけてきた言葉。
その「言葉の通りになっている」=「因果応報」。

 

親はよく私に言いました。
「お前なんて産むんじゃなかった」(=お前なんていなくなれ)
「アンタのこと考えるだけで頭が痛いのよ」(=お前のこと嫌い)
「こんなおかしい人間がいるから私の人生は不幸なのよ」(=だからお前いなくなれって)

 

ええ今、親の言う通りになりました「私は実家の構成員をやめることにした」。

 

結局鏡なんですよね。
小さいうちは生きるために仕方なく同じ思想を持っているふりをしなければならなかったし、
何言われようが何されようが「お母さんやお父さんが気に入ること」をする子でいなけりゃやってけない。

 

でも大きくなったらその「言葉」通りになる。
「さぞかし重荷な私でしょう、ならいなくなるよ」ただそうなっただけ。

 

因果応報の法則は甘くない。どこにだって適応(笑)。
「お前が嫌い」「お前がいらない」「お前が憎い」と言っておきながら、その憎い対象から愛情が注がれるはずない。

 

愛情ではなくいじめ。
「それだけは言っちゃならんだろう」って言葉で平気でぶってくる。心を粉々に砕く。
例え「親を敬いましょう」とか「親孝行しよう」っていう美徳や道徳を知ってはいても。
どんなに強くそれを刷り込まれようともやっぱり「自分をぶっ潰してきた人は敬えない」のですね。

 

言葉って結局「呪文」なんだと思います。アニメなんかでも「呪文」を唱えてこそその力が発揮される。「思う」までは力が発揮されないけれど「口にする=呪文」の力は凄い。「天にお願いした」ってことになる気がするんです。何度も口にするたびに魔力が強くなって実現されてしまう、みたいな(笑)。

 

だから絶縁だって、私のせいじゃないよーーん。と思ってしまう。
というか誰が悪いか悪くないかではなく、「それぞれが正しいと思う道を進んだだけ」だと考えてます。なので親とは平行線、道が重なることはないんですね。それでいいんです。

読んで下さりありがとうございました。

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