出来事を

「他者責任」=周りのせいにすれば、思考停止になる。(○○が悪かったんだから仕方ない)

「自己責任」=自分のせいにすれば、どうやって良くして行こうか考える。変化が出てくる。

 

例えば、趣味で絵画を始めても最初は上手く描けません。
「本に書いてある通りにやってるのに」「時間がないから」と自分を納得させた時点(本や時間のせいにする)で、上達が止まってしまいます。そうではなく、「どうやったら上手くなるか」、「どう工夫すれば趣味の時間を捻出できるか」を考え始めたら頭が回転し始めます。

 

家族の問題を他者責任で流せる人たち

両親は会社経営者。経営に困った時、自己責任だと捉えたんでしょうね。

 

「どうすればいいか」考えることができた。だから今も会社がある。1代で築き上げたから、様々なトラブルもあったと思います。でも、バブル崩壊も乗り越えそこそこ手堅い会社になっている。

 

ただ、家庭に関しては、他者責任(子どものせい)にして、思考停止させた。

 

いつも誰かが揉めていて、家庭は殺伐とする。子どもがどんなに訴えようが、子どもがうつ病になろうが、ボロボロになろうが、思考停止させた。全ては「子どもがおかしい人間だから、出来損ないだからそうなった」「親に間違いは一つもない」と言い放った。

 

会社経営を続けられる能力があるなら、子どもとの関わりを良くしていく能力もあったかもしれない。でも、親はそれを選択しなかった。

 

親と自分は違う人間

なぜ、会社経営→自己責任、家族経営→他者責任を親が選んだのかは理解できないし、したいとも思わないです。

 

自分の親がそういう選択(他者責任)を好む人間だったということを変えられなかった、そして親は一生変わらないと認めていくには長い時間がかかりました。悲しかった。同じ理想を分かち合いたかった。

 

諦めの中で、そういう選択を好む人も世の中に結構居ると気づきました。でもだからってその人が、完全な「悪人」なわけじゃないんですね。ただ、棲む場所が違う人間だったってこと、「好み」が違ったってこと。

 

私は私のしたい選択をする。だから親も自由にしたらいい。
私がそういう人と付き合わなければいいだけ。
もう、傷つけもしないし、その存在に傷つきもしないし、変われとも言わない。

 

例えばいちごが嫌いな人に、いちごを無理矢理食べさせる暮らし(理想の強制)は嫌なので、いちごが嫌いな人のことはそっと見守ることにしました。「いちごが嫌い」という好みは、誰も責めることはできないんです。私は親のように、嫌がる人に何かを無理矢理やらせたいわけじゃない。

 

いちごはおいしいね(家庭のことも自己責任だよね)、と共感できる人を探すほうが楽なんですね。

 

読んで下さりありがとうございました。