結論を言います。私は親を許していません。

 

許さないと前に進めないとも、幸せになれないとも思いません。むしろ「許されない部分」を守るからこそ、自分が幸せにそして強くなれたんだと認識しています。

 

「許す」ということもまた部分に分けて考えます。

 

『親を部分に分けて考える』という記事も書いております。そちらもご参考になさってみてください。)

 

まず、親の「存在自体」は許しています。
親のような(嫌な)人間が存在することを許せれれば自分が穏やかになるからです。
「他人をどう想っているか」は巡り巡って自分に跳ね返ってくるんです。
多様な人間がいることや自分の出処を許せない=自分が存在することについても許せないことになり苦しくなるからです。

 

次に、親の「部分」として絶対に許していないことがあります。つまり「親のした行動」を絶対に許さないし今後許す気もありません。

 

人間として決して許されないようなことまで許してしまうと「その種の行為」を他人から受けることを許してしまう=自分自身が侵され続けることを許す人生になってしまうからです。

 

だから、断固として親の「あの行為」は許さない。
(例えば、怒りのままに自分を殴ったこと、酷い言葉を何度も言ったこと、強制的に土下座させたこと、土下座している私の頭を足で踏んづけたこと、私の命を尊重しなかったこと、などその他色々。)

 

自分の中の砦。「ここまでは入ってきていいよ、ここからは入ってこないでね。」
この砦を侵されるようなことは絶対にあってはいけない。それは人間としての尊厳。
例え親だろうが誰だろうが、決して誰にも許してはいけない。

 

その砦を侵そうとする人がいれば断固として断る。

 

幸せは時にして「掴み取る」ことも必要なんだと知りました。
平和な日本にも平気で人から奪える人がいる。そういう人にまで親切にしなくたっていい。
その「存在」は許すけど、その「行為」は断固として許さない。頑なな態度が自分の安全を守る。幸せに暮らすには最低限自分を守れなければいけない。

 

武器を持って戦っても自分を消耗させるだけ。
もともと戦いが嫌いな人(毒親に悩む人の気持ちに敏感な人)が、戦いが大好きな人(人の気持ちに無頓着な人)に勝てるわけない。

 

だから、逃げる。勝てない戦をしない。砦に「入れない」ことだけに専念する。

 

許さない部分について許せなくて当然だと強く思うことで逆説的ですが、穏やかさを手に入れました。
そして「許されない行為」についての恨みを捨てる。
つまり感情を吐き出し「傷つき続ける気持ち」を手放すことがあったからこそ、今の幸せな心境にたどり着けました。
(「許されない行為」への恨みを捨てる方法についても近々お話しますね。)

 

「そんなことも許せないのか」というセリフ

よく言われますよね。(どうしてこうも共通点があるのでしょう(笑))

 

過去の話をして「そんなことまだ覚えているのか」「お前は過去のことを許せないのか」「心の狭い人間だな」「ウジウジしてるな」「暗い人間だな」・・・etc。

 

許せなくて当然なんです。

 

心が狭いウジウジしている人間なんかじゃ、決してないんです。

 

自分の尊厳を守りたい。そしてひいては人の尊厳も守りたいっていう意識がある。それを侵されては黙っていられないんです。だからこそ怖くても問題を正そう・変えようと行動を起こしている前向きな人間なんです。

 

毒親は問題のすり替えのプロフェッショナルです(笑)。
親が見たくない、考えたくないことを突きつけてくる子どもを疎ましく思っていたんでしょうね。

 

問題をすり替えることで話の内容を違う方向に向けている。子どもはただ、起こったことについて話したいだけなのに。「子どもの人格や行為を否定」する形にして話の方向を子どもに向けている。

 

こういうことを言えば子どもが黙る。もしくは親のやりなれた勝てる方法(言い争いやケンカ)に持ち込めることを知っていたんでしょうね。

 

毒親のずるさから出ている言葉を鵜呑みにすることはないんですね。

 

許せなくていいんです。心が狭いのではなくてきちんと「自分の砦」を守ろうと強く生きている人間の証なんです。

 

ムリして許さなくていいんですね。また、許せないからって汚い人間でもなんでもないんです。

 

読んで下さりありがとうございました。