毒親はどうして私を愛してくれないのか、大切にしてくれないのか
表題の件、何でなんでしょうね。愛してくれるどころかむしろ、嫌なことを進んでやってくる。
「叩くのが愛情」「世間の厳しさを教え込むのが愛情」「親の考えに子どもを従わせるのが愛情」と思い込んでいるから、っていうのもあると思いますが。
愛して「くれない」のではなくて愛「せない」。大切にして「くれない」のではなくて大切に「できない」。
可能なことをケチってやってくれない、出し惜しみをしているのではなく、もともと「できないこと」を私は相手に望んでいたわけなんです。
一例として私は親に「素直であること」を求めました。私を傷つけた事実をせめて認めてもらえれば。そしてせめて「つらい思いをさせて悪かったね」と一言でも言ってもらえれば。
両親は「傷つけた事実を認めると」その価値が下がると信じていました。親が子どもに謝るものではないと信じていたし、親は間違うことが一つもない神のような存在であるべきと信じていた。それを覆すことは両親、特に父親にとっては死を意味するくらいの屈辱だったんでしょう。
(『ニュー・アース -意識が変わる、世界が変わる- 』エックハルト・トール著、サンマーク出版より抜粋)
できないことを他人に求める矛盾
一昔前の私は「できないことでも頑張って克服するのが素晴らしいことだ!」と思っていました。
親の要求は全てのむ。こんなに頑張りました、こんなにやりました、私は完璧です! って。
嫌な事だろうが何だろうが、かみ砕いて飲み込んで、我慢を続けて、親のために。笑顔を忘れずに。
だから自他共に「できないことがある」という事実を認めたくなかった。見つめたくなかった。
だから他人にも完璧を求めた。
「漬物の場所、何でわかんないの? 毎日見てるじゃん! いい加減覚えてよ」
「何で就職活動しないの? 頑張ればいいじゃん」夫を責める。
自分だけが裁かれないのだろうか。他人は裁くくせに。その矛盾に耐えられなくなった。
「親ができないこと=子どもを愛すること」を私は、親に求めて、変われ、と要求していたんですね。
結局は「自分を愛する程度にしか、相手を愛せない」という前提がある中で。
親は、そんなに自分自身を大切にしていなかったし、愛していなかったんだろう。そして「大切にする」「愛する」ということが何なのか知らなかったんだろう、と思います。
(テレビから流れてくる価値観や家族愛みたいなものに、すぐ流されていたからです(特に母親))
そしてそれを(世間一般に「美しい」と言われている愛)を「どうしても理解できない」苦しみ、があったんだろうな。
親も「できないこと」を子どもに求められて苦しかったんだろうな。
(愛してほしい、大切にしてほしいという要求は、正論であったとしても。)
と慮れたときに、少し切ない気持ちになりました。
そう思った私でありました。
【本のご紹介】(アマゾンさんへ飛びます)
ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-
2015年年末から私がずっと読んでいる本です。この本にめぐり会い、この本に気づかされ、この本のおかげで真の穏やかさを手に入れることができました。
いつか、この本に書かれていることを中心に記事を書きたいと思っています。「今この瞬間を生きる(=今に在る)」「思考や持ち物や身体は『自分自身』じゃない」「思考や感情をただみつめる」など「さとる(=今この瞬間を嫌わずに、穏やかに生きる)」ためにどうすればいいか言及してあります。
※この本と出会ったきっかけのサイトがあります。そちらで詳しく解説してありますので、ご興味のある方はのぞいてみるのもいいかもしれません。
「勉強すれば人生変わるー悟りについて」
ちなみに、ニューアース解説以外にも多岐にわたる記事があり面白いです。ざっくばらんな語り口調が素敵です。調子が悪い時に覗くと、いつも元気と気づきをもらえます。私はこのサイトのファンで、記事更新を毎日楽しみにしています。
そして「私の書きたいこと」はほぼ、こちらのサイトで(私以上にとても簡潔にわかりやすく)書かれているので、私のサイト必要ないじゃん! と凹んでしまうほどです。一読の価値ありです。