解毒法3-10「便利なもの」をやめるー1.毒親問題は「家族像」との闘い


「便利なもの」はたくさんありますね。テレビ・スマホ・ライン・メール…etc。
無料の情報。手軽に見れる動画や番組。気軽に友人と連絡・再会できる。

 

でもでも、です。
自分が辛くてワケわからない時。
そういう時には「便利なもの」から入ってくる情報が不要な場合が多いんですね。

 

例えばです。
私がうつ病を患うちょっと前、学生時代の私の下宿先にはテレビはありませんでした。弟にあげてしまった。

 

テレビを見るのが辛かった。
キラキラ輝いている芸能人を見たら「この人は恵まれている」「カワイイから得してる」「私はブサイク」醜い感情をイダキ、幸せな物語を見たら「ああこんなものが欲しかったんだ私は…私には…ない…」とウナダレル。
不幸な物語を見ながら「ああ私も一緒だ私の人生どうなるんだ」と不安に歪み「この人(俳優さん)はこんな惨めな役を演じているけど結局この人は役者として成功してるくせに」という訳のわからぬ(笑)倒錯した考えを抱いたり。

 

テレビをみてない時も変な価値観に翻弄されてしまう。「24時間闘えますか~!」そうだ、テキパキ働ける社会人に早くならないと…自分の望みでもなんでもないのに、そのフレーズが心を煽る。

 

そして、ケイタイ。
私の学生時代は『ピッチ(笑)~~ケイタイ』の時代でした。(ピーメイル、スカイメール(笑)分かる人少ないかな?)

 

彼氏からメールない…。一日凹む。
そうと思えば親から着信「アンタどこ行ってんの!! この間の○○はどうしたよの、うんたらかんたら…(絶叫)」ブチッと切る → もっかい着信 → ブチッと切る → もっかい着信(以下略)
そして私も親と同じように(笑)連絡してこない彼氏に対してメール&発信攻撃! 一日中カリカリしてました。

 

…こんなんじゃ、良くなるものも良くならない(笑)。

 

簡単に使えて簡単に人と繋がることができる代わりに、簡単に「自分自身を見失ってしまう」。
空気のようにそこにある。だからこそ、そこから流れてくる価値観や感情の渦の中に気付かず巻き込まれてしまう。自分自身がしっかり地に足をつけていないとすぐ流されてしまうような「濁流」。それが身近にある便利な物たちだと考えます。

 

苦しい時、そんな濁流の中にいては流されて死んでしまいます。まずそこから一旦逃げることが大切だと考えます。実際私は逃げましたし、逃げたら人生が楽になりました。

 

ちょっと前置きが長くなりましたが、
1)メディアの怖さについて考える
2)通信機器の害について考える
3)メディア・通信機器から離れる方法
についてお話しします。

 

メディア=価値観の押しつけ、感情を煽る
通信機器=過剰過ぎる人との接点、整理できない人間関係、押し迫ってくる他人の価値観と感情

 


自分の欲望を自動的に決められる? メディアの怖さ

ここ10年、いや5年でかなり便利なものの幅が広がりましたね。

 

うちの子(現在6歳)が現像した写真を見て言いました「何で紙なの?」もうそういう時代です。夫も言います。昔はネットに繋ぐのに何分か待っていたり、フロッピーディスクが数万円した、とにかくデータを保存するものは凄く高価だったって。今や無料ですよね(笑)。

 

と、少し話がそれましたが、
無料の影に隠れているものはやっぱり「スポンサー(広告主)」です。タダで運営できるわけじゃないんです。(注)テレビや無料の情報が全て悪い・貶めたいワケではなくて、自分の調子を整えるためには一旦離れたほうがいいのではという提案です。

 

スポンサーは物やサービスを売りたい。そのためにはいろいろな手法を使ってきます。
人の感情に訴えかける。 特定の価値観を変に崇拝したり否定したりする。こちらが考える隙を与えないくらいバンバンに。疑う余地もないくらい完璧に。

 

これを手に入れれば幸せですよ、あなたは変われますよ。
これをしないとあなたは不幸ですよ、あなたの価値が下がりますよ。
この芸能人が持っているものを着ればあなたも素敵になれますよ。
あの芸能人もこの場所に行きましたよ、楽しいこと間違いなしですよ。

 

一方的に無料で配信される色々な「欲望」。完璧なイメージ像に無意識に劣等感を抱きながら、訳のわからないうちに自分の「欲望」も決められる。
「そうだ、私の欲しかったものはこれ『かもしれない』」
「こんなものが手に入れば幸せになれる『かもしれない』」
もしかしてそれ、手に入らないものかもしれないよ? 家族愛とか、輝かしい成功とか。自分の身の丈なんて考える暇もなく与え続けられる情報。

 

一方的な情報に耐え切れなくなる。「理想の私」に到底近づけない。「理想の幸せ」が手に入らないせいで不幸になる。

そしてそのうちテレビを見なくなって、友だちと連絡しなくなって、残ったのは「空白の時間」。結局その「一方的にいろいろ言ってくる」何かがなければ、自分の時間とすら向き合えなかった。

 


価値観や感情の植えつけ 「家族の絆」はどの家庭にもあるわけじゃない

当たり前のように流れている幸せは、手に入らない「幸せ」かもしれない。。。

 

ここでちょっと、森博嗣さんのお話をはさみます。「メディアによる価値観の植え付け」についてズバリ言及されています。

 

『…もう一度話を戻して、なぜそこまで「寂しさ」を遠ざけようとするのか、と考えてみると、次に思い浮かぶのは、そう「思い込まされている」という点である。…

 

…多くのエンタテイメントでは、仲間の大切さを誇大に扱う傾向があるし、またそれに伴って、孤独が非常に苦しいものだという感覚を、受け手に植え付けているように観察される。これは、たとえば「家族愛」なども同様で、そういった種類の「感動」は、つくり手にとっては技術的に簡単であり、また受け手も生理的に受けつけないというものではない。このため、みんなが利用する結果となり、社会に広く出回る。このエッセンスさえ入れておけばまちがいない、という定番になっているのだ。

 

TVも映画もアニメも小説も漫画も、この安易な「感動」で受けようとする。穿った見方をすれば、安物の感動である。そういったもので現代社会は溢れ返っているように僕には見える。愛する人が死ねば悲しい、でも、その寂しさから救ってくれるのはやはり仲間だ、というありきたりの「感動」がいかに多いことか。
…人が死ぬ場面や、泣き叫ぶ場面、親子や恋人が引き離される場面で、涙がでるのは自然である。ただし、涙が出ることが、すなわち「感動」ではない。…人を泣かせることなど誰にでもできる。それは「暴力」に似た外力であって、叩かれれば痛いと感じるのと同じ単純な反応なのだ。

 

しかし、このような「感動の安売り」環境に浸ってきた人たちは、それらが感動的なもので、素晴らしいものだという洗脳を少なからず受けるだろう。思考停止がさらに進み、植えつけられたものがその人にとっての価値観になり、常識にもなる。自分で考えなくなると、それが「普通」で絶対的なものになり、そうでないものは「異常」だとさえ感じるようになる。

 

結局、こうして植えつけられた観念からすると、孤独は、排除しなければならない異常なものになる。あってはならないものだから、孤独を感じるだけで、自分を否定することにつながる。その観念がどこから来たのかと考えもしない。そこに危険がある。(pp60-64)』
(『孤独の価値』森博嗣、幻冬舎新書より抜粋)

 

森博嗣さんのお話を読んで、何だか納得しました。

 

森さんのお話から考えると毒親育ちの苦しみは「メディアから流れてくる家族像」に合わない人々の苦しみであるとも言えます。
「年老いた親の世話をするのが立派な子」「家族は助け合うもの」「どんなことがあっても家族には絆がある」などなど。大多数の家庭には当てはまるのかもしれませんが、そうじゃないマイノリティはとても苦しくなる。
例えば親と絶縁状態であっても楽しく立派に生きている人もいるはずなんですが、それはメディアでは流れないし受け入れられない。

 

「家族を大切に思えない自分は異常なんだ」そう自分を責める人も多いと思います。そして私もその「家族像」を想って悩み苦しみました。

 

そして「寂しさ」や「家族愛」以外にもいろいろ押しつけられていると容易に想像がつきますね。

 

「寂しさ」や「愛しさ」同様、「楽しい」「幸せ」「おいしい」などは主観ですね。主観とは「自分自身」がどう感じるか、です。
例えばバラを見て「キレイ」だと言う人もいれば「匂いがキツイから嫌」という人もいて、感じ方は様々なはずです。それが主観です。

 

メディアは「可愛くないと価値がない」「お金がなければ人生を楽しめない」「オシャレじゃなければ人にあらず」「社会に貢献していなければ価値がない」「親を大事にしないなんて畜生」、、、世間の「当たり前」をバンバン流して人を不安にさせる。その「当たり前」に全く外れない人なんていないはずなのに。

 

「この服装にこの靴は合わない」いやほっとけよ。本人が着たい服、着たらいいじゃない?
「あの容疑者は○○な人でした」「こんな事件起こすような人じゃなかった」
誰か一人の感想が、あたかも「正解」「世間全体の感想」のように流れる。

 

そして昔の私と言えば…。
あの化粧品を買えば、あの洋服を着れば、ダイエットして痩せれば、○○すれば可愛くなれるってテレビでいってた。自分を変えようと躍起になる。すごく頑張るのにどうしても可愛くなれない。ねぇ誰かカワイイって言って。
必死さからか逆に怖い顔になる(笑)。

 

そりゃそうです。世間全体の言う「可愛い」にはなれないんです。そもそも「可愛い」自体が主観ですから。「世間の目」という幻想を壊したくないのがメディアなんです。その「怖い目」がなければ、物やサービスが売れないという側面もあるからです。

 

「家族の絆」「親孝行」などをバンバン流す。その流れで母の日なんかもあるはずです。ものが売れるから。「プレゼントを贈らないなんて親不孝」。

 

もちろん社会全体にとってプラスの側面もたくさんあるのは理解しています。ただ、その広告に流され過ぎたら最終的には「加齢臭がする人は人にあらず」くらいの激しい嫌悪感を産んでしまう。(まぁ多かれ少なかれメディアが『親を敬えない子がいるなんて』とか『どんな親でも親は親、大事にしなさい』という類の言葉を産んでいるんでしょうね。そして、人々がさもそれを自分の意見かのように錯覚する。)

 

…結局私がテレビを見れなかったのは無意識にも、その辺の「煽り」「押し付けられる『幸せ』や『道徳』、『他人の目』」に耐えられなかったからです。

 

テレビや映画から流れてくるような幸せな家庭が欲しかった。優しいお母さんがいてくれればよかった。一軒家に犬に芝生。カワイイ洋服を着たかった。足が細かったらよかった。目がもう少し大きければよかった。
でも、私には、ない。

ない物を手に入れようとした。
そりゃ、大変(笑)。

 

どうしてもテレビやネットは「○か×か」「ハッピーエンドかバッドエンドか」「善か悪か」「得か損か」という白黒はっきり付ける傾向もあると思います。(そのほうが見てるほうがスッキリするからかもしれませんが。毎回オチのないサザエさんも嫌ですよね(笑))

 

でも現実世界なんて白黒でハッキリする事柄のほうが少なくてむしろ、グレーでぼんやり進む事柄のほうが圧倒的に多いもんです。そんな中メディアに合わせて「白になるんだ!」「正義が勝つんだ!」「勝ち組になるんだ!」とかやっていたら非常に疲れます。(かくいう私が昔そうで、非常に疲れました(笑))

 

今は自分自身が確立されて落ち着いて暮らしているので、1ヶ月に2~3時間ですがテレビやyoutubeを見ます。でもそれはやっぱり純粋に「娯楽として」楽しめる「余裕」が自分にできたからであって、数年前は見れないし見たくないし黒い感情に翻弄されっぱなしでした。

 

読んで下さりありがとうございました。

 

【ご参考】森博嗣さんの本(amazonさんへ飛びます)


(PC・タブレット向けリンク)孤独の価値 (幻冬舎新書)
(スマホ向けリンク)孤独の価値 (幻冬舎新書)


森博嗣さんは小説家です。小説以外にもご自分の生活や考えをまとめた本をたくさん出されています。
私は森博嗣さんの小説はあまり読んだことがありませんが、彼の生き方や考え方はとても参考になります。一般的な表現で言えば「変わった人」なのですが(森さんすみません)、逆に私はその在り方に励まされました。私、変でもいいんだ(笑)、って変な自信がつきました。

対処法ーもくじ

対処法-はじめに

1-まず、親から離れる

 

3-自分の考え方や感じ方を変えていく

※未成年の方やどうしても逃げられない理由のある方は、2、3から始めてみてください。