自分と他人の「問題」を分けるー1.生きることを分けるで、生活の全ての問題(課題)を一旦分けてひとりひとりに返す、というお話をしました。

 

日常生活を分けることは比較的簡単ですが、これから話していくことは私もさんざん悩んだことです。
悩んだ、というか「当たり前すぎてそこに問題があると思えなかった」んですが(笑)。

 

それは「親を幸せにするのは、私(子ども)の問題である」のではないか? ということです。

 

「親を幸せにするのは、私の責任」「親をいい気分にするのは、私の責任」「親の機嫌を取るのは、私の責任」「お母さんをなだめるのは、私の責任」と書くとピンとくると思います。

 

親のために何かをし、親の嫌がらない選択をする。
親の機嫌が悪いのも、不幸なのも、全部、私のせい。。。
はっきりと自覚していた訳ではないですが「私がいないと実家が、両親が、お母さんが、大変になる!」という思いをいつも抱いていました。
(共依存的な考え方だったんです)

 

私は他人をいい気分にさせるために生きている。
という前提が正しいとすると、
他人は私をいい気分にさせるために生きている。
ということも正しいことになりますね。

 

だとすれば、私たち子どもも、親から機嫌を取ってもらえるはずだし、私の人生に責任をとってくれるのも親、ということになるのですが、、、

 

大人になった今、私の親が私の機嫌を取ってくれたり、私の失敗の尻拭いをしてくれたりすることはありません。

 

……そうなんです。「親の幸せ」「親の機嫌を取る」のは本来なら私たち子どもの責任ではないんです。
(そしてもっと言えば「大人になった私」の機嫌や気分や選択や行動は、全て私の責任(問題)でもあるんですね。)

 

夫婦関係が上手くいかないのも、仕事ばかりで人生を楽しめないのも、子どもを3人も産んでしまったことも、できちゃった婚して親から勘当されたことも、それは全て「私の両親の問題」なんですね。
それを子どもである私が、どうこうする義務なんて、本当は、なかったんですね。

 

親に笑顔になってもらいたかった。
少しでも楽になってもらいたかった。

 

私の働きかけが少しでも届いてくれたなら、私も満足したのに。
でも、ちっとも良くならない。ずーーーーっと良くならない。
何か、私って何のためにいるんだろ。。。

 

昔はそう思って自分自身に失望していました。

 

お母さんの、お父さんの、機嫌が悪いのは私のせい?

『僕は他人に機嫌取ってもらわないの。自分の機嫌は自分で取るの』
って私の好きな著者の斎藤一人さんも仰っています。

 

この言葉にはハッとさせられました。
毒親の元で育った私は、自分の気分が悪いのも人生が上手くいかないのも「誰かのせい・何かのせい」といつも周りのせいにするくせがあったからです。

 

そしてその思考回路が自然と身についたのは、両親の姿を見ていたからなんですね。
「子どもたちがいるせいで、私は自由になれない」
「(夫婦喧嘩の結果)お母さんが泣いている。話を聞いてやれ」
「口答えするなんて何様なんだ。私はこんなに苦労してお前を育ててやっているのに」

 

 

上の親のセリフは全て「面倒ごとや問題が起こることを全て外のこと(子ども)のせいにしている」
ので、問題の所在を明らかにしてみます。すると、

 

「自分が自由(と思える暮らしをするために)どうするかは母親の問題
「妻をなだめること、夫婦としてうまくやるのは父親の問題
「子どもを育てるのは親の問題(もっと言えば、子どもをもうけるのも自分の意思なのだから「子どもなんて産みたくなかった」とか言ってその選択を子どものせいにするな(怒))」

という感じになります。

 

小さなことから大きなことまで、とにかく親の機嫌を取り親の面倒をみ、親の気に入るようなことをたくさんしてきました。
それが私が自ら望んでやっていることであれば問題ないんです。

 

でもそれは半ば強制なんですよね。嫌だ嫌だと思いながらも親の問題を取り繕う。そのうちそれが自分の「使命」のような変な感覚を覚える。

 

でもそれは不健康な関係だったんですね。だって「私が辛すぎる」。私自信をすり減らして付き合っているし、何より「ずっと同じことの繰り返し」だからです。

 

問題を分けることは「冷たいこと?」

でも、でも、どうしよう。
今私がお母さんと付き合うのやめたら、お母さん取り乱して何もできなくなるよ?

「あの家」がダメになってしまう。。。
どうしようどうしよう。

そうだ、助けないと。。。
私が何とかしないと。

 

以前はこういう気持ちでしたし、親を放っておくなんてもってのほかだと思っていました。
親の問題を解決してあげることが優しさだと思っていました。

 

無理やり親と絶縁して距離をとったからこそ、わかったことなのですが、自論を言いますね。
すごく極端なことを言いますけれど。

例えば「両親の夫婦関係」だったら、
もう、壊れてしまえばいいんだと思います。

 

壊れてしまえば両親も「真剣に」考えたんだと思います。
私が緩衝材になることで、関係を繕ってあげることで、問題がありながらもダマシダマシ続いていた両親の夫婦関係。

 

「何かが壊れる・上手くいかない・苦しむ」という痛みをもってして初めて、自分の問題だと自覚し、自分で何とかしないといけない、と人は思うのではないのでしょうか。

 

私も親と絶縁する前後で(内面も含め)いろいろなものが壊れ、上手くいかず、苦しみました。親への恨みで自分がボロ雑巾のようでした。でも、そこまで嫌な思いをしたからこそ本気で「何とかしたい!」と前進できたんだとも思います。

 

創造の前には破壊がある。((笑)芸術家のようですが)

 

なので、人の問題を安易に解決して「あげる」ことが優しさではないんだな、ということをしみじみ感じた私でありました。

 

本人が問題を自覚していて、解決のために私の力がいるのなら喜んで貸します。
でも、本来自分の問題であることを自覚もせず解決しようともせず、丸投げされたものを、私が解決して「あげる」ことはもうしません(というか、できません。こちらにも似たようなことを書きました。親は本当に変わらない? 変わるのは誰の問題?

 

お母さんお父さんが苦しんでいるのかもしれない。
でもそこでぐっと、こらえる。
誰でも自分の問題を解決する力があると信じる。
その力を信じることが、信頼だと思います。

 

読んでくださりありがとうございました。

 

【続き】自分と他人の「問題」を分けるー3.「物」で自分と他人を分ける