「ねばならない」という「しつけ」を見直す-2.具体案


『「ねばならない」という「しつけ」を見直すー1.生きることは義務?』でお話しした通り「生活の全ては義務」と教えられた私。
大人になり、毎日の暮らしが「○○しなければならない!!(義務)」と脅迫的になりとても苦しい思いをしました。
本で勉強したり夫と話し合ううちに、その脅迫的観念も和らいでいきました。
その考えについてお話します。
 
「約束は守らないといけない」それなら分かります。
仕事や約束事に責任をもつのはとても大切です。
つまり「義務」を果たすことですね。
そして「義務」を果たさないと多かれ少なかれ何かしらの「責任問題」時には「罰」などがあったりします。

 

でもですね。日常生活において「~~しなければならない」ってあまりないと思います。
「~~しなければいけない」を「~~する義務(責任)がある」に置き換えて考えると分かりやすいです。

 

1.「顔を洗わないといけない!」など
2.「仲良くしなければいけない!」「義実家に帰らなければならない!」など

 

これを置き換えます。
「顔を洗う義務(責任)がある」
「仲良くする義務(責任)がある」

 

置き換えてみるとよくわかりますが、変ですよね。
話を分かりやすくするために単純に話します。(いろいろ状況はあると思いますが)

 

1.の部分は「生活習慣」の話なので「義務」ではないですよね。まして「罰」や「責任問題」に発展するものでもないですね。

 

よく考えれば、顔を洗うかどうかなんて全くもって本人の自由です。目やにがついてようがよだれがついてようが、本人がいいのならいいんじゃないの。(私は嫌ですけど(笑))

冷静に考えれば、出かけない時まできちんとする必要ないんですよね。休みの日に一日中パジャマにノーメイク。それだけで「だらしない、有意義に過ごせてない、ダメダメだ」と自分を責めていたのですが、そもそも「自分自身がそれでいいなら、それでいい」んです。

 

ただ、子どもを育てる際に何も伝えないわけにもいかないですよね。
ダラけることも必要ですが、メリハリも大事。。

 

つい、強い口調で「○○しなさい!」「何でやんないのよ!」と言いたくなりました。「○○しなきゃ、ダメでしょ、いけないでしょ」って。
しかし強く言って怖がらせてもいいことない、と自分自身の苦い経験から知っている。どうしよう。

 

そういう時は「それをすると、どんないいことがあるか」という視点で伝えればいいのでは? と夫に教えてもらいました。

 

顔を洗ったほうが「気持ちよく過ごせる」し「人と会う時の最低限のエチケットとして」相手も自分も心地いいよ。身なりをきちんと整えられるほうが、結局「自分」が社会のなかで生きやすいよ? 
みたいな感じで伝えたらいいのでは。

 

「顔、洗わないといけないよ(義務)」ではなくて「顔洗おうね」と子どもが自発的にできるような発言に変える。イヤだと言われたら「洗ったほうが気持ちいいよ?」くらいでゆるく伝えるようにしてます。

 

上記の私のように「何でも義務!」って辛い人生を送ってほしくないですし、『「「ねばならない」を疑うー場所、地域、時代」』でもお話しした通り「ねばならない」は時代や場所で変化するものなので、私の言っていることが必ずしも正しいとは言い切れないんですね。

 

2.の「仲良くしないといけない!」は対人関係の話ですね。
「仲良くしたいかどうか・そこに行きたいか」という誰かの気持ちを無視したものになっていますね。

 

「仲良くする義務(責任)がある」 時点でそもそも「仲良くない」んじゃないのかしら(笑)

 

とまあ、少し話がそれましたが、
例えば職場・学級など、ある程度のまとまりが必要な団体に所属しているのならば「仲良くする義務(責任)がある」気もしますけれど、
それは「仲良く」ではなくて「相手の気持ちを踏みにじらないお付き合い」つまり「距離のあるお付き合い」ということなのではと思います。

 

例えば挨拶されたら返す。してもらったことには感謝を示す。時間やルールなどの約束事は守る。などなど。
相手の領域にズケズケ入っていかない。その代り自分の領域も守る(入ってもらわない)。

 

「仲良く」って、相手のことをよく知って、お互い会いたいな、と思うような関係のことですよね。
どんな人にも「仲良くしなければいけない」となるともう、相手の言うこと全てを聞き入れ、自分の意思はそっちのけで、苦手な相手でもニコニコ楽しい雰囲気で接さなければ「いけない」、、、非常に疲れる状況に耐えろ! と言われているような気分になります。
(実際今でも自分は「どんな人にもニコニコしてしまう」のがやめられません)

 

 
なので、息子には誰と会いたいか会いたくないかをきちんと聞くようにしています。例えば義母さん宅に行くかどうかとか、○○ちゃんと遊びたいかどうかとか。
本人が嫌だと言ったら無理に会わせようとしない。

 

あと、公園などに出かけた時にも無理に「あの子と遊んできたら? 仲良くしなさい」とか言わないようにしています。どうしても言いたくなるんです。息子が小さい頃は「仲良くさせなければ、良い母ではない!」世間体みたいな、変な圧力みたいなものに負けてよく言っていました。

でも子どもって結構、瞬時に「自分の波長と合う子」を選んで勝手に遊んだりするもんです。
その「瞬時に自分と波長の合う子」を選べるレーダーを壊したくないんです(笑)
周りの人たちにどう見られてるかな、という視線に耐えつつ、無言で見守るように練習しました。慣れてくれば大したことなくなります。

 


生活の1コマ1コマを見直す

以上のようなことに気をつけ、生活の1コマ1コマを見直していくうちに自然と「○○しなさい」という言葉以外の声かけができるようになりました。

 

果たしてこれは「義務」なのだろうか。
「やらないととても困ることなのだろうか」と1つ1つ見直す。
焦って毎日を過ごさなくてもいい、ただ目の前にあることを1つずつ淡々とこなす。
できなきゃできないで、なーんも困らない(ちょっと散らかったりもしますが)、それで私の価値は決まらない。

 
私自身の「義務」に凝り固まった毎日もほぐれてきました。
育児を通して自分を「育てなおす」ことができるんだな、と実感している毎日です。

 

料理を楽しんだり、茶碗洗いをサボってみたり。
まぁいっかあ茶碗洗いしなくたって死なないし。
一年後の今日は、今日やらなかったことなんて覚えてないし。。
せっかく料理やるなら、ちょっとだけお金使って気にいる道具を揃えてみようか。
などなど少しずつですが、気楽に構えることができるようになりました。

 

読んでくださりありがとうございました。