親を大切にしないと本当に「バチが当たる」のか。その1【責任転嫁】
親を大切にしないとバチが当たるのか考えてみました。
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- その2【信念】
- その3【圧力】
この3点盛り(笑)で考えてみました。
「バチが当たる」=責任転嫁?
魔女狩りってありましたね。中世のヨーロッパ。
「疫病が流行るのも小麦が不作なのも、全ては魔女のせい」
日本にも似たようなことがあります。
「地震が起ったのは死んだ○○の祟りのせいじゃ!!」などなど。
(私は専門家ではないです。うろ覚えなんですが社会学か何かの本で)
自分たちの力ではどうしようもないことが起こった時。
やり場のない感情をどこに向けていいか分からない時。
「落とし所を見つけるために」、「魔女のせい」「祟のせい」という便利な言葉があったんですって。
・・・つまりは「責任転嫁」なんですね(笑)。
それと同じな気がするんです。
親を大切にしないとバチが当たる・後悔するとかって言葉も。
例えば私が、将来ひどい不幸に見舞われたとします。
で、その時に「ああバチが当たったんだ。親を大事にしなかったからなんだ。苦しくても親の言いなりになっておけばよかった。」っていうのは、
要するにそれでその出来事をそれ以上考えないぞっていう表明文なんですね。
その不幸を引き寄せるような落ち度や行動が自分にあったのかもしれない。
現実を見つめて考えようとしないで、
全く関係ない「親を大事にしなかったから」という言葉で納得させることになる訳ですね。
本当は親を大事にしていようがいまいがその出来事は起きていたんですね。
ただ責任の所在をどこにしたいかってところなんだと思います。
そこで自分のことを呪う形にしたのが「親不孝だったから」っていう言葉なんですね。
人間の精神を守るための賢い方法でもある
ただ、これが全く悪い方法だと言いたいわけではないんです。
どうしようもない出来事を例えば「親不孝だったせい」ということにしておけば、それ以上考えこまなくていいんです。
精神衛生上は良いことなんですね。
どうしようもないことは「何かのせい」。
衝撃的なシーンを何度も思い返さなくて済む。
必要以上に自分を責めることもなくなる。
必要以上に自分を責めることもなくなる。
そういう方法を取ることも、自分を守るために良い時だってあるんですね。
でもそこで「自分が親不孝だったからだ」ってことにしなくたって。いいんじゃん。って思うんです。
だからそこでの結びつけは「運命だった」とか「天気が悪かったから」とか「神様のせいだ」とか。
せめて自分を責めることのない「責任転嫁」をすればいんじゃないかなと考えます。
子どものお気に入りのおもちゃが見つからない時、
「あああ私が親不孝だったからこんなことが起こったんだ~!」じゃなくて、
「あら~オバケ君が面白そうだったから持って行っちゃったのかな?」
とかほのぼのする責任転嫁にするとか。
絶縁すると後悔する・バチが当たる=「責任転嫁」というお話でした。
読んで下さりありがとうございました。