親の存在・親の死について私がどう考えているか話そうと思う


 

2015年6月に「父親に腫瘍が見つかった、死ぬかもしれない」という連絡が来た時の顛末をお話しています。
1、親の「死ぬ死ぬ詐欺」
2、「親の死は大したことない」ー感情を抑圧する私
3、親の死は私のせいーその「恐怖」を吐き出す私
4、親の存在・親の死について私がどう考えているか話そうと思う

 

やっと吐き出すことができた「親の死」にまつわる恐怖。そして知らず知らずのうちに湧き出ていた「旧家族たちに理解されたい」という執着。向き合い考えていきました。

 

 

まず、もう一度私にとっての親の存在はどんなものだったかを確認しました。悲しいことですが親が心の拠り所だったことなんてなかったんですね。

 

  • 分かり合えない(絶対に分かろうとはしない)人
  • 私を所有物・思い通りになる相手だと思っている人
  • 自分が困ったときにさらに困らせてくるような人
  • 「親だけが偉い」「親だけが好きにしてよい」
  • 私の領域に土足で踏み込んでくる人、入ってくるなというと「お前がおかしい」という

 

私の両親は「お前が死なない程度に暮らせるようにこの家の一部を貸してやっているんだ、ありがたく思え」っていう態度で子育てしてました。

 

もちろん、世間でどんなことをするといけないか、人様を傷つけてはいけないなどのしつけもしてくれましたよ。人格否定とくつべら叩きがセットでしたけれど(笑)。

 

私が泣き叫んで助けを求めた時に、薄ら笑いをして楽しそうに見ていた人びと。自分が困ったときに一番頼りになったのは自分と家族以外の人たち。
今だって何かに困ったとしても、懐かしく親を思い出すことなんてない。思い出すことは苦い出来事ばかり。

 

どうしてそんな人と付き合えるでしょう。分かりきっていたはずなんです。
でも今回、どうしてそんな人たちに理解されたくなったのでしょう。

 

「父の死」という強烈な不安が、その古い居場所を思い出させていたんだと思います。
人は不安があると「過去のやり慣れた方法を取って安心しようとする」らしいです。(『習慣の力 The Power of Habit』チャールズ・デュヒッグ著・講談社より)

 

相手に理解されたいのは「自分の居場所を確認するため・自分の存在を認めたいから」。今の居場所は現家族(夫と子ども・義実家)なのに、あたかも自分が旧家族と一緒に暮らしているような錯覚を覚えたのかもしれません。
不安を感じ向き合うことができればそんなこともなかったのかもしれませんが。

 

絶縁する頃、自分の親はこんな親だったと認めて、諦めて、認識を変えて、納得して、手放したんです。その作業を何度も繰り返して親への執着を捨てたはずだったんです。
その作業をもう一度やりました。
「親はどうやっても変わらない、私にとって毒にはなれども、益にはならない」
「親は親。私は私。私は私の人生を全うする」
 

 


そして、親の死について。自分がどう思っているのか。

悲しいけれど。素直な気持ちを言うのは咎められるかもしれないけれど。

 

……そういう前提の親が亡くなったとして、心から悲しむこともないだろうなと思いました。複雑な気持ちにはなるとは思いますが。
……だって今も、親がいてもいなくても、日常は何ら変わらない。。。
 
 
 
私の知らないA市のBさんが今日亡くなったとしても、私の人生は変わらない、それと同じで。
お亡くなりになられたことはお悔やみ申し上げますが、それでも私の日常は変わらない。

 

逆に、毎日顔を合わせる近所のおばちゃんが亡くなったら、相当凹む。毎日優しい笑顔を向けてくれる方。

 

悲しいけれど、でもこれが私の素直な気持ちです。
そりゃ私だって願わくば、ドラマのワンシーンみたいに「あったかくて優しかったお母さん」を想いながら、お母さんの最期を看取りたいですよ。

 

でも「現実は小説より奇なり」です。そんな上手くできてないんですね。
親の死に目には「呪いの言葉」を放たれる、絶対。「お前のせいで人生滅茶苦茶、お前のせいで私は死ぬ」と言われる。そんなん背負いきれるか! ムリ(笑)。
 
 
 
ドライかもしれませんが、一度そう納得していたことを思い出したら冷静になれました。
そして同時に、怖がることないんだな。と落ち着きました。

 

今いる場所を大切に

実際に親が亡くなったら気持ちが揺れることもあるでしょう。
でも、もう私には自信がある。昔の私じゃない。
信頼関係で結ばれた人間関係がある。無条件に受け入れてくれる人がいる。

 

夫がいる。子どももいる。私を理解して守ってくれる人がいる。
感情を抑圧しなければ自分を見失わないことも学んだ。
時間が経てば平穏な日常に戻れる。例え気持ちが揺らいでも、それはそれでいいんだ。だから大丈夫。

 

親に理解されなくても私は私」「親に理解されるだけが人生じゃない」 親が認めてくれなくても私を認めてくれる人がいる。もうそれで十分だ。その人たちを大事にしていこう。 毎日顔を合わせる人びとと失敗しながらも笑って、支えあって、尊重しあって、生きていきたいんだ。

 

そう確認して、少しずつ元気を取り戻していきました。

 

……この頃が8月中旬でした。
その後頭のどこかから「片付けしよう~!」という指令がきました(笑)。
片付けするためには、それ関連の本を読むのが一番効くので、先日ご紹介した『新・ガラクタ捨てれば自分が見える』を購入。(毒親対処法3-9片付けをする(断捨離))
(3年前絶縁時買ったのは旧版です。)

 

そしてガツガツ捨てる時期に入ります。
私は何を捨てたかといえば「絶縁しようとしていた頃の、アイデンティティが不安定だった頃の自分」「母親のように生きる自分」です。

 

読んで下さりありがとうございました。

 

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新 ガラクタ捨てれば自分が見える (小学館文庫)


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