無条件の愛って何?
無条件の愛って「自然」や「自分の体」や「電気や水」や「物」だと私は思います。
は? と思われる方もいらっしゃると思います。
実際私もちょっとかっ飛んでるなとも思います(笑)。
無条件の愛は「人から人へ直接与えられるもの」のように言われています。
例えば親から子どもへの「無条件の愛」。
「子どもがどんな人間であろうと、変わらずに注がれる愛」
「子どもがどんなことをしようとも、変わらずに注がれる愛」
無条件の愛を与えられなかったから、子どもが健全に育たなかった。
よく聞く話です。
私も昔はそう思っていました。
無条件の愛への憧れ。渇望。
無条件の愛を親から受け取っていればどんなに幸せに暮らせただろうと、
自分の家庭環境を呪ったりしました。
毒親のもとに産まれた私には一生手に入らないものだと信じていました。
そして「喪失感」のようなものに何度泣いたことか。
なので自分が親になった時「無条件の愛を子どもに与えるんだ!」と躍起になっていました。
今もできるだけ努力しています。
・・・できるだけ努力しているんですけれど、でも、どうしても無理な時がある。
例えば、子どもが赤ちゃんの頃。
私はたっぷり眠らないとダメなタイプで、夜泣きや授乳で何度も起こされるたびにイライラしていました。
でも、
無条件の愛を与えないと子どもが不幸になってしまう!
子どもがどんなことをしようとも、穏やかに変わらずに接さないと!
無条件の愛を与えないと子どもが不幸になってしまう!
子どもがどんなことをしようとも、穏やかに変わらずに接さないと!
外に出たがっている子どもを毎日公園に連れて行かないと!
子どもが泣いたら何を差し置いてもそばに駆けつけないと!
元気な時はいいのですが毎日2~3時間の細切れの睡眠が続くとヘロヘロになります。
だんだん脅迫じみてきました。
「無条件の愛を、変わらぬ愛を・・・!」・・・バタッ。倒れちゃいました(笑)。
そんでイライラMAXになって、子どもをバチーン!とやってしまったり。。
(毎日ではないです。4ヶ月に一発だけですけど、やっちゃってました(反省)。)
(今は子どもを叩くことはなくなりました。「叩きたい」衝動についても今後お話しますね。)
そしてハッと我に返り、反省してまた頑張る。
無理矢理にでも頑張る。
死んでも頑張る(笑)。
無理矢理にでも頑張る。
死んでも頑張る(笑)。
でまた、イライラがたまる、バチーン。。。。の繰り返し。
無条件の愛、与えたいんです。
頑張るんですけれど、毎日変わらずになんて無理。
頑張るんですけれど、毎日変わらずになんて無理。
私は神様じゃないから、睡眠不足な時もあれば体調不良な時もある。
自分を優先したい時がある。
どうすればいいんだろう。
完璧に愛を与えるには。
どんどん苦しくなっていきました。
やっぱり無条件の愛をもらってこなかった自分には、愛を与えるのには無理があるのだろうか。
それと同時にやり切れない思いが噴き出してきました。
「愛をもらえなかった」自分を思い悔やんで・・・。
愛を貰えなかった自分、与えられない自分への絶望の中で・・・
気づきがあったんです。
「調子を変えずに一定の愛(無条件の愛)を注ぎ続けるなんて無理!」
人間には無理なんだ。
自分の親にもそれを求めたけれど、荷が重たかったのかもしれない。
毒親は無条件の愛なんて、100のうち5か6しか与えられなかったのかもしれない。
でも自分だって努力しても、100のうち70くらいしか与えられない。
じゃあだれも完璧な「無条件の愛」なんて与えれれないのかもしれない。
それを人間に求めるのは酷なことなのかもしれない。
変わらない愛、変わらない態度・・・?
んで、シャワーを浴びながらふと思い出したのが大好きな故郷の海。
私が泣いていようがわめいていようが、毎日変わらずに波打っている。
故郷の川も、毎日変わらずに流れている。大好きな存在のままいてくれる。
自分の体。
心臓も腸も体の機能は、私が寝ていようがサボっていようが変わらず動いている。
健康になれるように動いている。
心臓も腸も体の機能は、私が寝ていようがサボっていようが変わらず動いている。
健康になれるように動いている。
電気。
私が使えるように誰かが間接的に供給してくれている。
私が使えるように誰かが間接的に供給してくれている。
欲しい時にスイッチを入れ、不要になったら好きに切ることができる。
水道。シャワーを浴びたいだけ浴びれる。汚れを流してくれる。栓をひねればすぐ私を温めてくれる。
物。何も言わず私のそばに居てくれる。
私がいて欲しいだけそばに居てくれて、要らなくなったら捨てても文句言わない。。
気に入るものから元気をもらえる。
好きな服を着れば気分もあがる。
気に入るものから元気をもらえる。
好きな服を着れば気分もあがる。
電気や水道や物は、誰かが知恵を絞って考えて作って整えて供給してくれている。
私が困らないように潤沢に与えられる。
間接的な愛情をそこから受け取ることができる。
これを考えた時に、
「無条件の愛、いつも受け取っていたんだ。海や川は変わらずに自分を待ってくれている。間接的に色々なひとが努力して与えてくれている物。これらを愛として受け取ろう。」って思ったんです。
自分が自分に「無条件の愛」を与えたらいい
無条件の愛を他人に求めるのは大変なことがわかりました。
そして自然や自分の体や周りの物に生かされて生きている私。
他人に求めるのが無理ならば自分に求めちゃえばいいんだとも思いました。
人から与えられなければ自分を満たせないと勘違いしていました。
そして毒親がそういう生き方をしていたんですね。
自分の人生を誰かを思い通りにすることで満たそうとする人たち。
その態度を真似ていたんですね。
身近な大人から自然と学んだ「他人に満たしてもらう」態度を改め
愛情だって自分で自分に与えてあげたらいいんですね。
試しに自分に向かって「大好きだよ」と言ってみてください。
不思議な感じがすると思いますがちょっと嬉しくなります。
初めは疑っていましたけれど、言葉かけを続けて今振り返ると
「自分で自分に愛情を与えることができる」とわかりました。
自分の心地良いことをすることもそうですが、それと併せて「愛の」言葉(照)を自分にかけてみるのもいいかもしれません。
読んで下さりありがとうございました。