「ねばならない」という「しつけ」を見直すー1.生きることは義務?
仕事は義務、家庭生活は義務、家事も義務、育児も義務、朝起きるのも義務、学校に行くのも義務、時間を守るのも義務、全てが義務。
「朝起きなければならない」「顔を洗わなければならない」「朝食を取らなければならない」 「学校に行かなければならない」
全ては「~しなければならない」「しなければ、生きていけない」「できない奴はダメ人間」
(そこまで言わなくたっていいじゃん笑)
そしてその「義務」を教え込むのがしつけ。「義務」を果たせるような人間にするために「叩いていい」。
私の両親の生活やしつけに関する考えはこんな感じでした。
子どもの頃の私には「何をして何をやらないか」という選択肢はありませんでした。親のいう「義務」を果たすことが「良い人間、良い子ども」だと信じていました。そして義務を果たさなければ「悪い人間」、そして「罰」が待っていたんです。
私は叩かれることが心の底からイヤだった。
叩かれる痛みに耐えられないのではなくて。
母親にモノで体を叩かれるたびに、自分の中にある何かが轟音をたててまっぷたつにバリバリ引きちぎられるような、恐ろしい感覚を覚えていた。
母親にモノで体を叩かれるたびに、自分の中にある何かが轟音をたててまっぷたつにバリバリ引きちぎられるような、恐ろしい感覚を覚えていた。
あの、叩かれる時の、あの衝撃だけは、何としてでも、避けたい。。。
「罰」が怖くて「学校に通い、家事や身の回りのことをこなしていた」んです。
全ては「義務」。
大人になり、その調子で仕事する。完璧にできないから仕事を家に持ち帰る。延々仕事する。休めない、手を抜けない。うつ病悪化。
結婚しても「洗濯しなきゃ、ご飯作らなきゃ、掃除しなきゃ、買い物行かなきゃ」と何かに追われるように日々を過ごす。
疲れていても休めない、、、やらないといけないの!! ちょっと疲れてようが頭痛かろうが頑張らないとダメなの!!! ……うぁああああ!!
やらないとダメな人間になってしまう、という気持ちは抑圧したまま。
そんな気持ち怖すぎて正面から見つめられない。
それよりも日々の義務を完璧にこなさなくては、、、、という脅迫観念に追われてる方が楽だったのかもしれない。
ダメな人間ではないと(無意識に)証明しようとする毎日。
私は正しい、美しい、善良な人間だ、ちゃんと毎日義務果たしてるでしょ!!! ってな感じで。
私は正しい、美しい、善良な人間だ、ちゃんと毎日義務果たしてるでしょ!!! ってな感じで。
……そのうちぶっ倒れるんですね。
全てを
「やらなければいけない(やらないと無意識に埋め込まれた『罰』に苛まれる)」という図式でやっているので、
ちょっとの家事でもすぐ疲れる。全てが面倒。そのくせ、60点とかで済ませられない。やるなら完璧にやらないと(脳内罰がくるので)。
そして家事をやらない夫を見るとものすごーーーーい、イライラする。
「何で私だけがやらなきゃいけないの、こんなメンドクサイ義務!!! あんたも何か手伝いなさいよ!!!!」という黒い感情が渦巻き、夫と喧嘩。。。
「何でそんなに、何でも『やらなきゃやらなきゃ』って脅迫的なの? 怖いよ」
と夫に言われへこみ、家事も育児も楽しみでさえも全て重荷になって疲れる自分。
自分を好きになりたいはずなのに、人生を楽しみたいはずなのに、ほど遠い。。。
嫌だ嫌だと思いながら結局は親と同じような態度(人生を楽しめない、全てを義務的に捉える)をとってしまう。。。
この脅迫的な「ねばならない」を見つめなおすことが幸せへの近道かな、、と思って夫と話し合ううちにいろいろなことが見えてきました。
具体的な内容は次回お話ししますね。
子どもへのしつけを通して、自分の「ねばならない」も緩和されていきました。
読んでくださりありがとうございました。
読んでくださりありがとうございました。