解毒法3-3自分の欲求に素直になり、やりたいことをやる
- 幸せになりたい(=親をさしおいて……)
- 休みたい(=私だけ楽して悪い)
- 食べたい(=太るからだめ、卑しい)
- モテたい(=ガツガツして醜い)
- 人気者になりたい(=目立ちたがり屋だねぇ……)
- 綺麗でいたい(=歳がいもなくみっともない!)……etc。
と、このように自分の欲求には必ずと言っていいほど脳内否定(笑)が入ります。
「自分の欲求に素直になる」ということは、自分で自分の欲求を「許可する」ことだと思います。なので、脳内否定を書き換えます。
(万が一、実際人に言ってしまうと咎められるような欲求でも、まず欲求として認めることが大切です。自分の一部を否定することになるからです。それに、その欲求を実行するかどうかはまた別の話だからです。欲求としてまず認めてしまえば案外落ち着いたりもします。自分の欲求を怖がらなくていいんですね。「想う」までは自由です。)
私は、頭の中でつぶやく時が多いです。実際に口でつぶやく&ノートに書くとよりスッキリします。
「○○って思っていいんだよ。」○○に欲求を当てはめます。これで十分です。これを繰り返します。
発展形、
「休みたいって思ったっていいんだよ。休んだって地球は滅びない(笑)。」
「モテたいって動物として自然だよね(笑)。モテないよりはモテたほうがいいもんね。」
「ずっとキレイでいたいもんね。おしゃれを忘れないおばあちゃんっていいよね(笑)。」
私は長年自分の欲求を「感じること自体」を抑圧してきました。「欲求のない人間が美しい」と刷り込まれてきたからです。当然ですが、欲求を満たすことにも慣れていませんでした。なので、初めはかなり戸惑いましたが、自分の無理のない範囲で続けていきました。
不思議と欲求を認めるだけでも、自分が穏やかになってきました。
「○○しても、いいんだよ。」っていう言葉が優しい雰囲気のある言葉だからかな、とも思います。
ああ、自分は自分に厳しすぎたなぁ。。。そして、他人のことも、厳しく見てたな……。としみじみ感じられました。
ああ、自分は自分に厳しすぎたなぁ。。。そして、他人のことも、厳しく見てたな……。としみじみ感じられました。
私は今でも苦しい時は必ず、「自分の欲求は何? 無視してないかな?」と考えるようにしています。
たいていは「自分自身が、自分の幸せを許せていない」ことが多いです。(幸せであることを禁止されてきたから当然なんです。幸せを拒否するのが自然な動作になってるんですね(苦笑)。)何が欲求かわからない時は「幸せを受け取っていいんだよ。幸せになっていいんだよ」と唱えることにしました。
「自分のやりたいことをやる」
欲求を許可できるようになってくると、自然とその欲求を叶えようと自分の力が働きます。まず身近な範囲で「やりたいことを」やってみました。
洋服をいつもより多めに買ってみたり、家事をサボってみたり、食べたい物を好きなだけ買ってみたり。
毒親育ちが自由になるためには、小さい頃に満たされていなかった欲求を満たすことがとても大事なんですね。
やりたいことをやる、って勇気のいる時もあると思います。(脳内否定の関係で(笑))
「こんなことやっていいんだろうか?」やっていいんです。やってはいけないと言っていたのは毒親だけです。
万が一他人に迷惑かけたとしても素直に「ごめんなさい」って言えばいいんです。実害が生じるようなことをする訳じゃないんです。
万が一他人に迷惑かけたとしても素直に「ごめんなさい」って言えばいいんです。実害が生じるようなことをする訳じゃないんです。
一歩踏み出せば、意外と後はそのまま惰性で(笑)いけるもんです。
しばらくして気づいたんですが、やりたいことをやっている人を非難する人って少ないんですね。
しばらくして気づいたんですが、やりたいことをやっている人を非難する人って少ないんですね。
そこまで自分のこと、人は見ていない。たいていの人は自分に自由を許す代わりに、他人の自由も許そうとするものなんですね。
私はそれに気づいていませんでした。「やりたいことをやっている自分」に対して「自分が」非難の言葉を浴びせている場合がほとんどだったんです。
他人に非難されているように感じながら、実は「自分が心の中で」非難していたんですね。
他人に非難されているように感じながら、実は「自分が心の中で」非難していたんですね。
毒親は、子どものどんな行為も見逃さずに全部を否定し続けてきた。だからその見方で自分を見る。一挙一動がおかしい気がする。他人もまた「毒親のように」一挙一動を見て自分を非難していると思い込んでいたんですね。
今自分の嫌いなものが「かつて欲しかったもの」?
「酸っぱいブドウ」ですね。イソップ童話です。
欲しくても手に入らないもの(ブドウ)に、キツネは「どうせ酸っぱいから要らない!」と言い訳をして納得させたっていうお話です。
子どもの頃、許されなかったこと、買ってもらえなかったもの。欲しい気持ちをどうにもできないから、嫌いになることで納得させてきた。
例えば、キャラ物とコラボしたおまんじゅうが売ってあるとして、それを素直にいいな可愛いな欲しいとは思えず(子どもの時絶対に買ってもらえなかったから。)
「キャラ物にしたら値段が高くなる。そうやって高く売りつけたいのが丸見えで、汚い商売だ」とか(毒親由来の(笑))難癖を心の中でつけて、嫌いになろうとする。
かわいいワンピース。「ブリブリしていてあんなの恥ずかしい」本当は高校生の頃買ってもらいたかった。おしゃれしたかった。。自分には必要ないと思い込み、嫌うことで心を落ち着かせていたんですね。
嫌いになっちゃったから、関わりたくない。でも、関わらないことで損をしている。「嫌いになってしまったもの」の中には、沢山の楽しみや喜びや発見や経験が用意されているかもしれないのに。
私の親は生活に最低限必要なもの以外は全て「ダメ」と言っていました。仕方がないので私はほとんどのことに対して、難癖つけて嫌がっていました。
何に対しても嫌な気持ちを持ち続けていたから、自然と態度に出るんでしょうね。いつもイライラした顔だったと思います、自分が。そしたら、自然とイライラした人を引き寄せて、人間関係も上手くいかない(笑)。
今は自分の欲求に素直になったから、「ああ~こんなの子どもの頃欲しかったんだよな」と自分の子どもと一緒に色々なものを楽しめています。自分が楽しむ過程で、同じ楽しみを共有できる人と出会える。いい循環が回ってくるんですね。
欲求を満たすことの大切さ
私は神様ではないから、欲求が満たされないと、絶対に人が羨ましくなるんですね。
こんなにやって「あげてるのに」と見返りが欲しくなる。自分が神様のような特別な存在じゃなきゃ嫌な気がしてくる。
「やってあげた」ことに、自分の「望む反応」が返ってこないと、腹が立ってくる。
当たり前です。自分を「削って」「イヤイヤながら」我慢しているからそうなっていたんですね。
そしてその気持ちのまま、人と関わるからトラブルが発生してたんですね。
「やってあげた」ことに、自分の「望む反応」が返ってこないと、腹が立ってくる。
当たり前です。自分を「削って」「イヤイヤながら」我慢しているからそうなっていたんですね。
そしてその気持ちのまま、人と関わるからトラブルが発生してたんですね。
さらに「人が羨ましい」という気持ちすら、抑圧している。「羨ましい」なんて思ってなんかいない。「羨ましい」気持ちは汚いから(毒親語録(笑))。でも抑圧されてるから、別の形で出てくる。体調に出たり、精神的に出たり。
体調不良で仕事が上手くできず、精神的に出て人とトラブったり。。
自分の欲求を満たすことが、巡り巡って、人との関係を良くすることに繋がるんですね。
また、欲求って汚いものだと思われがちですが、そうではないんですね。「欲求は尽きないもの」って言われていますが、大部分が満たされてしまえば、案外それ以上欲しくならないもんです。人間なんで「欲求」にも飽きと変化が来るんです、いつか。
一つ欲求が満たされれば、一つ楽になる。満たしちゃえば消えてしまう欲求も多いです。ダメダメ、って言うから余計欲しくなるんですね。無料でバンバン配られているティッシュを欲しいと思う人はいない訳です。
今まで、手に入れてはいけないと思っていたものを、無料のティッシュの如くバンバン自分に与えちゃえばいいんです(笑)。バンバンもらえるものは、そのうちそんなに欲しくなくなります。
読者様の欲求が一つでも多く満たされますように。読んで下さりありがとうございました。
次の記事→3-4 刷り込みを書き換える